昭和44年9月9日 朝の御理解                               中村良一

御理解 第68節
「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。拍手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。」



えー、信心には、えー、辛抱が大切であるということと、えー、内容が大切であるということ。教えておりますよね。内容が、あー、大切である。辛抱するということが大切であると。確かに、内容がなからなければいけん。その内容を、自分の内容を、確かめ確かめして、えー、少しでも、内容が充実してくるという事は有難い。ね。けれども、んー、やはり、形のことも大事である。いや、内容は出来んでも、おー、せめて、形だけでも出来て、辛抱させて頂いておったら、そこから、その、何かが得られる。あー、何かがというと、いわば、御徳も受けられれば、おかげも受けられる。神様は、えー、またの御理解十三節でしたかね。神は打ち向かう、うー、倍力の徳を授けると仰るのですから、形の上でも、神様に打ち向こうていけば、その倍力の徳を受ける事が出来る。まあ、厳密に申しましてね、内容が、内容がと、こう申しますけれど、ほんなら、内容が出来た人というのは、まだ、出来ておると思う人が、実際それを検討してみるとですね。実際は内容は出来ていないです。ね。それは、自分自身のことを思うて見るが一番良い。段々信心が分かってきた。あー、内容も充実してきたように思うのですけれども、それを、おー、神様がご覧になったら、どうであろうかと、言うような見方を致しますと、もう、あい済まんことだらけ。出けているようであって、いっちょんでけとらんち言う。それでも、やはりおかげを受けておる。徳を受けていく。問題は、私は、その、辛抱することが、と仰る。やっぱ、辛抱するという事は大事である。中途半端にならんように、辛抱しぬかなければならぬ。有難そうに、心経じゃ大祓いじゃと言うても、心に真がなければ、神に嘘を言うようなものじゃと仰せられておる。ほんなら、声はあげんでも良い、大祓い、大きな声はせんでも、真がなかったら、神はそういうようなもんじゃと仰るから、声も上げず、黙ってその、静かに静かに拝んでおる。ほんなら、果たしてお互いの内容を確かめるとき、真があるかどうか。そこんところを追及してまいりますと、本当に、真という、その真のお粗末なのに、自分ながら驚くことである。ね。して見ると、やはり、本当に、有難くはなかっても、有難そうに、ね。小さい声よりも、腹の底から大きな声で、大祓いを奏上させてもらい、ね。有難そうに、節をつけたりせんでもと仰るけれども、自分の調子というか、ね。一つ乗リズムといったようなものの出るくらいな、その、やっぱ、九州の、おー、人達が拝むのと、大阪辺りの人達が拝むのは、大祓い一つでも違うでしょうが。ね。そこには、言うなら、大阪には、大阪調子があり、九州には九州の調子がある。ね。リズムが違う。だから、それが一緒になるともう、ごっちゃ、何か、有難い、いわば、物になって来ない。ね。だから、九州には九州の一つのリズムというか、調子があるから、その調子を体得すると一緒に、まあ、なら、大勢がこの、一生懸命、えー、声を揃えて大祓いでも、だまーって一人拝みよるとへ言うて来る。あー、あの人は黙って拝みござるき、えらい真のある人じゃろと思いよったら、なーんの、うらうら眠りよんなさる。これじゃ詰まらんでしょうが。ね。ですから、形の上でもです。やはり、一生懸命、真はないに致しましてもです。一生懸命に大祓いを奏上させて貰うて、節をつけて、その節の、上げておる自分の、その、大祓いなら大祓いに酔うような時があります。どっからこげな良か声が出るじゃろかとち言うごたる声が出てくる。その、大祓いに、の、一つのリズムに乗って、お神様を拝む。ね。声は立てんでも良い、節はつけんでも良いと仰るから、黙って心のなかで御祈念をしておる。なるほど、出来ておるときもあるけれども、人間というのは段々、段々、じーっとしておると、ついつい、睡魔が襲うてくる。そして、人の上げとる大祓いが、子守唄のごつなって、ちゃーんと眠ってしもうておる。ね。してみると、それよりも、やはり、声を立てたり、節をつけたり、そのリズムに乗って、楽しゅう御祈念が出来とるほうがいいでしょうが。ね。それは、神に嘘を言うようなものであっても、それでいいのです。例えば、テレビなんかのコマーシャルを聞いておりますと、あー、それこそ、もう、自分げんとが、一番良かつのごと言いよる。はー、薬の宣伝どん聞きよるなら、もう、そーにゃ効くごたる風に。もう、いいようだんこの世の中には、あの、何ちいうですかね。森繁が、やりよる、あれどん聞きよんならもう、皆さんもう、それこそ、おー、あら、キャベジンか何かち言うとは、勿論、効くらしいけれどもです。もう、胃病だんもう、胃病というという薬は、この世からなくなってしまうように、むごう、宣伝しよるでしょうが。ね。それが、そうじゃなくてもです。ね。それは、お客さんに対して、嘘を言うも同然だけれども、それでも、やっぱり、なら、キャベジンで、あの、良くなっていきよる人もあるかも知れん、または、押さえであっても、効きよる人があるに違いはない。飲まんより良か。ね。ですから、信心も今日はね。私共は、本当に信心は、内容を大切なものである。その内容が大切であるから、いわば、形のことを、軽うみる。というのは、一つの、内容は、こんなにも大切だということのために、私はこういう表現を教祖様はして、教えておって下さっているのであって、そんなら、その内容をと、自分で内容を作っていきよるようにあって、今、御祈念の姿一つでもそうである。声を上げることは要らん。黙って拝みゃ良い。拍手も、無理に大きな音を立てることは要らんと言うてもです。はあ、自分の打ち鳴らすこの拍手の音一つでもです。ね。本当に、段々、こう、玄人になってまいりますと、もう、冴えてきますよね。パチッと。バチっとは言わん。ね。その拍手の音を聞いとっても、心が、なんか清まるような気がする。それを、拍手もせんならんし、ただし、内容ですよね。拍手をせんでも、大祓いを無理に大きな声を立てんでも、節をつけんでも、ずーっと、神様の前に御祈念をさせて頂く、拝ませて頂いておって、神様と交流しよりゃ、これが、だって、一番いい事に間違いないのである。ところが、交流どころか眠ってしもうとる。だから、それよりも、声を立てたがええ、拍手は、やはり、色々工夫して、良い音色の出る、拍手の打てるように、段々玄人になっていかにゃいけん。ね。必ず、良い言葉、良いということの、その、えー、人に物言うように頼めと仰るから、ね。神様、こうでございます、ああでございますと。人に、物言うようでも良いけれども、やはり、祝詞言葉の一つも覚えさせて貰うてです。ね。本当に、神様に聞いて頂くじゃろうような、祝詞言葉でも覚えて、御祈念の中にも、順序、道筋を立てて、祈らせていただく。お取次ぎを頂くでも、段々、巧者になってまいりますと、本当に、見事にお取次ぎが出来る。やはり、覚えていかなければいけん。
私、昨日、んー、原さんところの、嫁ごの、美子さんが、あー、御祈念の後に、お願い参拝に参りました。もう、本当にあの、それぞれの、もう、おー、自分の主人、子供のことは、言うに及ばず。家族中のことのお願いお届けがですね。いつの間に覚えたじゃろうかというごと、見事にあるです。だから、その内容が、あろうがなかろうが、それだけで良いと、私は思いましたです、昨日。ね。まだ、原の家に嫁ごに来てから、あー、何年にもたちません。また、お参りも、そう繁々とするわけじゃありません。けれども、段々、お参りをして、時たまにでも、おー、お月次祭ならお月次祭だけぐらいお参りしてきよるようですけれども、お参りをして、段々お話を頂いていくうちに、段々、信心が巧者になっていく。お届けのし道も自分ひとりで出来るようになり、しかも、順序を立てて、ね。万事万端の上に、ご都合お繰り合わせがいただけますようにという、お願いを、聞きよってです。そのなかに、真があろうとは、実際思われない。言うなら、嘘を言っておるような感じ、その感じっと言うが、かも分からない。けれどもね、それだけのことが、言い習うたら、もうそれだけで良いと、私は思うたです。昨日お届けさせて頂きながら。そしたらです、夕べ、あの、この頃、主人をなくして帰ってきとります、一番下の千恵子さんが、子供連れで、夕べ、毎晩晩に、晩に参ってくるんですよ。そしてお届けしますのに、今朝方から、そのお夢を頂いた。というのがその、兄妹で三人ですね、まあその、北野に行っとります、うー、恵子さんと、それから今、善導寺に帰ってきております、敦子さん。すと、自分とですね、合楽で会おうと。みんなして和服を着て行こうじゃないかと。問題があったら、合楽に行けば解決する。ね。兄妹、親戚全部が合楽で会えれる。わざわざ、あんたんところに、尋ねて行こうと思いよったけれども、朝の御祈念に参りゃ、恵子さんもきとるし、敦子さんもきとるから、そこで万事が解決する。よし、問題があっても、まあ、ごちゃごちゃがあっても、ごちゃごちゃした、その挙句にはです。けれども、親先生はどげん言いなさるのという事になってくる。ね。そこに、問題の解決が出来てくる。そういうおかげをいただけというお夢を頂いてるんです。そのお届けをさせていただきよったら、丁度、朝、美子さんですね。いわゆる、兄嫁がお参りをしてお届けをしたおった。その時の姿を私が、そのお届け、お夢をお届けさせてもらいよる時、頂くわけです。だから、それは、あの、千恵子さん、あんたの、兄弟だけで、本当の、血の繋がった兄弟だけではなくて、兄嫁の美子さんも、それには入れにゃあいかんねて、ね。そうして、ね。それは、様々な問題はあろうけれども、合楽に行けば解決する。しかも、和服を着ていくから解決する。和服というのは、平和の和が書いてあるでしょうが。私は、服というのは、おなかのことだと思うた。ね。和服を着ていこうと、兄弟三人が話し合って、しかも、合楽に行けば解決するんだと。用があっても、まあ、朝の御祈念にお参りすりゃ、北野からも参ってきとる、善導寺からも参ってきとる。あすこで解決する。問題があって、よし、ごちゃごちゃしたところで、まあ、ごちゃごちゃしてもです。結局は、ほんなら、合楽、親先生はどげん言いなさるのという事になってくる。そこに解決が出来る。それも、自分達の、ほんなら兄弟三人だけではなくてです。兄嫁の美子さんもやはり、その中に加えていけれる雰囲気を作らなければいけんという御理解をいただいておる。ね。ですから、内容が出来て、まあ、行きよるに違いないけれども、みんな、合楽その、内容が出来ておるということじゃないけれども、ね。それで良いという気がする。ね。神様へ打ち向かうというのは、なるほど、心から打ち向かうという事は大事である。けれども、形からも、やはり、打ち向かわなければ駄目である。大きな声をすることは要らん。大きな手を打って、拍手の音をさせんでも良いと。真さえあれば、神へ通じると仰るけれども、その真たるものを、自分で検討してみると、ね。真のない証拠にゃ、だまーって御祈念しよったら、眠ってしもうとるじゃないか。それだったら、いよいよつまらん。だから、やはり、拍手も、ぱっと、澄み切ったような、(手を叩いて)っとこう、拍手の、音色一つでもです、ね。本当に心が清まるような拍手が打てるようにならにゃいけん。大祓いでも、天津祝詞でも、自分ひとりで、しかも、そこに一つのリズムが出てくるような、自分が奏上させて頂いておる、大祓いやら、天津祝詞に、自分で自分ながら聞き入るような、私は、その、美しい大祓いが、御祈念が出来るようにならなければいけない。形のことです。ね。やっぱり、必要だ。金光様の信心するものは、しては、そういう、声を上げたり、拍手を無理に大きな音を立ててはいけないと仰っておるのじゃないのである。それよりも、内容、内容、ね。は、もっともっと大切なのだと、いわゆる、真の追求を教えておられるわけなのですけれども、ね。私共は、ややもすると、でも、合楽には、そういう稽古があるんです。ここでは何時も、おー、お参りしてきても、今は、そう一人ひとりに、御理解を頂くといったような事は滅多にありませんけれど、皆さんが、あそこで、朝の御祈念の後の御理解をテープで皆さんが頂いておられます。ですから、途中で参ってきた人は、天津祝詞も上げん、大祓いもあげん、黙って御祈念をしておるというような形で、えー、もう、これは合楽の流儀な んです。他所あたりでは、やはり、一生懸命大祓い上げられよります。天津祝詞を上げられます。そして、御祈念をして帰られる。ね。ですから、その、おー、人が、御理解いただきよるとにその、邪魔になるようなことのためには、私は、やはり遠慮したが良いとは思うのですけれども、自分ひとりで、本当に御祈念をさせて頂く時など、また、みんな一緒に、こうやって、御祈念をさして頂くときなど、ね。決して無理な声をたつることは要らんとか、拍手は、無理な音をたつることは要らんと思わずに、自分で、自分ながら、感心するような大祓いを心の底から、大きく上げなければいけないと私は思う。ね。ですから、ここんところを今日は、頂いて頂くと同時に、けれども、それでもです、それでもね、その、徳が受けられるとか、おかげが受けられるというのはね。たとえば、本当なことは出けていない。まこと神にうそを言うも同然といったような内容であってもです。けれども、辛抱だけは必要だということです。ね。その辛抱していくうちに徳が受けられるのである。だから、これも、これもじゃない、これは絶対必要なんだ。
昨日、ある若い先生から、あー、便箋五、六枚ぐらいびっしりと、その、自分の悩みを書いた手紙を受けました。読まして頂いとりますと、本当に気の毒だなあと、その方が、御道の中でも、教団の中でも、名門と言われる人の、おー、次男坊でおられます。御道の教師の資格も取られた。ね。それで、本部教庁へ勤めておられます。ところが、本部教庁での、いわゆる、薄給です。もう、実に少ない給料だそうですね、本部へ勤めるという事は。ね。それでもその、お父様がなくなっておられます、お母さんが、あー、お父さんの後を、兄弟二人で、まあ、守っていってくれと言われるけれども、自分が現在独身だからまだ良いけれども、これに、家内でも貰うたら、どげんして生活していくかという、生活の不安を感じると。そこで、自分の心のなかに、別な仕事を見出すか、でなかったら、どこか、あー、まあ、出来れば大きな教会の養子にでも行きたいと、こういうのである。それに迷っているというのである。ね。えー、新地という、いわゆる、教会のない、えー、ところへ、えー、新たに布教に出るような精神で、どっか、養子にでも行きたいとこう言うのである。その事と、もうひとつ、これは信心とは関係のない、もっと、学校も、えー、相当しとられるのですから、他に勤め口を探して、もっと給料のましな、いわゆる、家内を貰うても、子供が出来ても生活が立っていくような仕事のほうへ、えー、仕事を選ぶか、どちらにしたがよいか、自分迷うておると。そこんところのお取次ぎを頂きたい、お祈り添えを願いたいという、もう、本当に私、身につまされる、おー、金光様の先生も、んー、その、金光様の先生という枠の中にはめ込まれてしもうてから、こういう悩みを持っておられるという事はですね。えー、まあ、つまされる思いが致すのでございますけれども、私は、御神米を送らせて頂いて、その御神米の上に、いー、こういう事を書いて、えー、送らせて頂きました。あれこれの、思いを捨てること。あれこれの思いを捨てること。そこから開ける道に進むこと。合楽の方だったら、直ぐ分かるだろうと思います。他所の先生方じゃ分かりなさらんかもしれません。それで、分からんごと、分かりなさらんごとある時には、また、何か尋ねてきなさろうけれども、けれども、これは、御神意を頂いてのことですから、もう、それだけのことを御神米に書いてやった。皆さんは分かりなんですね。あれこれの思いを捨てること。ね。自分が養子にいきたいと思う。新地布教にでも出たいけれども、新地布教にでも行くような精神で、どっか、あー、いわゆる、名門から名門へというわけでしょうかね。大きな教会に、えー、その養子でも、あれしとられるとこがあるなら、そういう養子にでも行きたい。でなかったら、他に仕事を求めて、もっと給料のましなところへ勤めたい。だから、私は、思いました。ね、例えばね。あれ地布教、新地の布教にでも、例えば、でていこうと、此の方の道は、傘一本で開ける道じゃからと仰るから、それこそ、もう、一生懸命、命がけでです、新地布教にでも出て行こうというのならば、まだいい。けれども、いくような精神で、養子に行きたいと。もう、絶対、そげなおかげは受けられんと私は、あー、思いました。丁度、若先生も、その事を私が話すんです。この手紙を見てから、お前はどう思うかと。私は、そういう精神では、おかげは受けられんのだと、金光様のご信心は。ね。だから、養子に行きたいとか、仕事との事とかといったようですね。あれこれというのは、その事です。養子に行きたいという思いも捨てろと。ね。または、ね。仕事に付くという思いも捨てよと。あれこれの思いを捨てることと。ね。私は、金光様のご信心はね。形だけでも、そこんところが出来るところからおかげは受けられるのですよ。んなら、あの思いも捨て、この思いも捨てたと。ほんなら、かといって、信心の内容というものが、まこと、ここにあるように真がなければと仰るが、真一杯の、それからの信心ができるかというと出来るはずはないのです。ただ、現在も、薄給ではあるけれども、本部教庁へ勤めておられるから、そのままです、そのままで良いけれどもです。ね。あれこれの思いを捨てること。そこから神様の働きが始まるのです。たとえば、私の言うた事をです。いうたら、親先生が言われるから、合楽の大坪先生が言われるから、そうさして頂いたというだけで、おかげになるのですよ。そこから、必ず道が開けてくる。それは、大隈教会から、養子口が来るかも知れん。いやいや、もっと、もっと、夢にも思わなかったような道がそこから開けてくるかも知れん。だから、その道を歩くという気になるんだと。例えば、このお取次ぎに対しましてもです。今日、私が申します、そう御理解を頂いたから、御教えを頂いたから、そうするという、この内容というものは、大変なことなんですよ、大体は。ね。あれこれの、思いを捨てる事と言ったようなことはもう、いうなら、我情我欲を捨てることと同じことなんです。ですからその、我情我欲が捨てられるはずはないのですけれども、例えば、あの、ざっと言うてですたい、養子に行こうと思いよる、その思いだけは捨てろと。どこへ勤めると言いよったけれども、それは勤めん。とにかく、今、頂いておる、それは、給料は少なかろうけれども、それで、辛抱していきよれとこう言うのである。そこから、私は、これは確信することは、そういう気になりゃ、必ず道は開けてくるです。それだけではない、他の道が。だから、ね。そこから開ける道を進めとこういうのである。進めることと。ね。そこからの、開ける道に進むことと。そこから、生まれてくるのが体験である。そして、例えば、ほんなら、養子口があって、良か教会に養子に行かれていってでも、ね。その内容というものを振り返ってみると、ああ頂いたから、ああ思うたけれど、はー、それじゃ、ほんなら、思いを捨てようという事になって、楽にはなったけれども、ま、我情我欲を捨てるほどしの、立派な内容というものが出来ておったはずはないのに、このようなおかげを頂いてという事に必ずなるんだと。ね。いうところがです。やはり、お取次ぎを頂いて、信心の、おー、させて頂いておるものの、あー、いわば、有難さというか、あー、これは、信心を頂いておらなければ頂けないおかげなのであります。ね。ただ、辛抱が大事。なら、現在勤めておる、そこに辛抱しておくと言うことが大事なんです。ね。今日は、六十八節をそのようなふうに、こう頂いたわけですね。何時も、ここんところを、ね。えー、内容を第一として、その、まこと第一として御理解を頂きますけれども、ほんなら、果たして、えー、大きな声も立てない、拍手も、小さい拍手でいい。人に物言うとおりに、ね。そういうことよりもです。ね。それが出来、本当に、真からできれば、それは結構だけれど、なかなか人間というものは、だまっとったら眠気が来ると。例えば、いうような例を持って申しましたように、それじゃいよいよつまらん。そこで、節もつけたがええ、拍手も、良い音色の出るような拍手を打ったがいい。人に物言うようにというよりも、やはり、神様に申し上げるのであるから、祝詞言葉の一つも覚えさせて貰うて、ね。道筋立てて、順序を立てて、拝む稽古をさせて貰うたがいい。ね。そこから、何とはなしの、いわば、神に嘘を言うようなも、同然かも知れんけれども、そういうような形が出来てくるという事だけでもです。おかげが受けられる。まあ、いうなれば、ね。信心はできんでも、おかげは受けておるというのは、そういう事なんです。ね。言うならば、神様が、それだけのことが出来る、それだけのことが辛抱できておるから、神様が、内容が出来ておらんでも、神様は蓮根食うて下さるようなものだと思うです。ね。その、蓮根食うて下さって、おかげがいただけ、やはり、身に徳が受けられると仰る、徳もうけられ、いわゆる、神へ打ち向かう倍力の徳を授けると仰るのですから、そういう形の上においても、打ち向かうことによってです。ね。倍力の徳が受けられるということが言えると思うのでございます。ね。どうぞ、例えば、御祈念一つをなさるでも、ね。先唱される先生の後に、一生懸命の、やはり、大きな声を立てて、大きな声を出して、その先生の、一つの調子というのがありますから、先生の調子に合わせて、ね。もう、それと、一つの一体になる、ね。いわゆる、御祈念が楽しゅう出来る、私は工夫が、大事ではなかろうかとこう思うのでございます。同時に、私が、その先生に、えー、送って差し上げたという、その御教えの、あれこれを、を、あれこれの思いを捨てること。これはおかげを受けるこつあいです、皆さん。あげんありたい、こげんありたいという思いを捨てて、お取次ぎを頂いたら、いわゆる、白紙状態にならなければいけないのです。なったが、内容が、直ぐ一編に、パーっと詰まってしまうわけじゃないけれども、それがおかげを頂く事なんです。ね。そして、現在のまま、しっかり辛抱しておきなさいという、その辛抱を大事にして行く。そこから、開ける道が必ずある。ね。その道を進めることが大事なんです。せかせかしとってはおかげになりません。ね。形よりも、内容が大事であるという事は、もう、もう、言わずもがなです。けれども、私共は、先ず、形のことからでも、入らせて頂いて、ね。内容が、段々、それから出来ていきゃ、なおさら有難い。内容内容と言うて、内容ばっかり言いよると、なーにも分からんなり、しまえてしまわんならん。十年も信心しよるけど、まあだ、大祓いいっちょ上げなさらんという事になってくる。ね。そういう事では、いよいよつまらんのです。そういう、例えば、大祓いなら大祓い、形のことでも覚える。天津祝詞も覚えた。拝詞も覚えた。調子よう自分ひとりで御祈念が出来る。そういう信心が辛抱して続けられていきよればです。神様に打ち向こうたことになるのですから、有難いじゃないですか。どうぞ。